コレド室町のすぐ近くに鎮座する福徳神社。その御由緒は古く、9世紀の貞観年間(859〜876)に遡ります。江戸城に入府した徳川家康、そして2代将軍秀忠の篤い信仰も集めました。今でも日本橋を見守り続ける福徳神社には、多くの人がお参りに訪れます。
お参りのあとには、「芽吹稲荷」の別名にちなんで新芽が刺繍された、芽吹き守や勝守をおみやげにするのもいいですよ。またこの福徳神社は、江戸時代に富くじの発行が許された数少ない寺社のひとつであったことから、宝くじを保管するのにご利益があるといわれる宝袋も売られています。内側には宝船柄、縁起がいいですね!日本橋観光に来たなら、お参りしたい福徳神社です。
福徳神社で新型コロナウイルス感染症流行鎮静祈願祭が行われました
境内に「感染症流行鎮静祈願」の短冊を設置、3月20日「新型コロナウイルス感染症流行鎮静祈願祭」を執り行い、祈りの短冊を神前にお供えしました。
短期間でのご案内にも拘わらず多くの方の賛同を得られたということでした。
画像は当日の境内に咲いた桃の花です。
桃は古来より邪気を祓う植物とされています。
一日も早い感染症流行の鎮静と平穏な日々が戻りますことを共にお祈り申し上げます
福徳神社と富くじの歴史
福徳神社(芽吹稲荷)は、たびたび幕府より勧化を許可されています。
文政5年8月・天保6年5月・天保10年12月・弘化3年12月・嘉永4年2月・安政5年に、火事で類焼した社殿の造営を願い出たところ「江戸中勧化を差許されたり、是を以ても幕府の尊信浅からざるを知るべきなり」とあります。この勧化は、少なくとも文政・天保期の場合は、幕府公認の富くじ興行「御免富」でした。
福徳神社と富くじ
富くじは無尽・頼母子講が変形し発達したものです。私的な富くじ興行は早くから行なわれており、幕府は元禄五年申(1692)5月10日付で「とみつき講」「百人講」を禁じる触れを出しています。以来、たびたび富突禁令が沙だれているところから、江戸期を通じて、三都を始め各地で広く行なわれたことがわかります。
幕府はこのように私的富突を規制する一方で、享保年間には、由緒ある寺社に限り、堂舎修復費捻出のための富くじ興行を公認するようになり、これを「御免富」と称しました。
富突が盛期を迎えるのは田沼意次が老中となる安永2年(1772)以降で、谷中感応寺・目黒不動・湯島天神の「江戸三富」のは早朝から群集が押し寄せたということです。
文政から天保期までが江戸富突の最盛期であり、福徳稲荷の富突興行もここに集中していたと思われます。当時の富突場には江戸三富のほかに、護国寺・椙森稲荷・本所回向院・芝神明・茅場町薬師・白旗稲荷・浅草寺奥山・下谷六阿弥陀などがありました。
中でも富突きに”福徳”とは縁起がよく、ことに福徳稲荷の場合は、この社号「福徳」に加えて、秀忠により江戸城から合祀された弁財天が福財神として庶民の注目を集め、人気を博したと推察されます。
文政末頃の出版と思われる『江戸大富集』では、福徳稲荷興行の富くじは、当たりくじの最高額が300両であり、これは年4回興行15口の中では、山王御神社・嵯峨御社・南山科御社・根津御社と同等の最高額となっています。
文政4年の御免富許可基準評議からすれば、福徳稲荷は確かに「御由緒厚き寺社」として扱われています。ここにも将軍家康・秀忠とも所縁が生きていたと言えるでしょう。
また、自社興行のほかに文政12年(1829)から足利金剛山鑁阿寺(現栃木県足利市)堂舎修復のためのご免富が興行されました。
福徳神社の由緒
福徳神社の創祀された時は明らかではありませんが、福徳神社に伝わる略記によると、貞観年間(清和天皇・860~876年)には既に鎮座していたようです。
武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号としました。
その鎮座する社地は広く、社殿も宏壮で、社の四隣は森林、あるいは田畑に囲まれ、農家が散在する片田舎でした。土地の人は神社の森を稲荷の森、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいました。
後の明暦3年酉年(1657)正月8日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。
当時の人々は、この散乱した碑石の残存した破片を集め保存したと考えられています。
その碑名の移しは次の通りです。
表 宮戸川邊り宇賀の池上に
立る一里塚より此福徳村
稲荷森塚迄一里
裏 貞観元年卯年
三つき吉祥日
そもそも福徳神社は、元来武将の信仰があつく、源義家朝臣(みなもとのよしいえあそん・1039~1106年)が深く崇敬されていたことが記されていた、と伝わっています。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっています。
天正18年(1590)8月1日に入府した徳川家康公は、同じ8月に初めて参詣され、その後参詣は数度に及びました。
芽吹神社の由緒
二代将軍秀忠公は慶長19年(1614)正月八日に参詣し、「福徳とはまことにめでたい神号である」と賞賛されました。この時、芽吹神社古例の椚の皮付きの鳥居に、春の若芽の萌え出でたのをご覧になり、芽吹神社の別名を「芽吹神社」とされました。
元和五年(1619)2月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納され、さらに「社地縄張を三百三十坪」と定められました。
御祭神
主祭神
倉稲魂命〈うかのみたまのみこと〉
… 五穀主宰の神。日本書紀では倉稲魂命、古事記では宇迦之御魂神と表記する。
相殿
天穂日命〈あめのほひのみこと〉
… 天孫降臨に先立ち大国主命と和す。
少名彦名命〈すくなひこなのみこと〉
… 医薬・温泉・酒造の神。武将の崇敬あつし。
事代主命〈ことしろぬしのみこと〉
…大国主命の子物事よく知る神。国土経営に努む。
三穂津媛命〈みほつひめのみこと〉
江戸時代前後に合祀
太田道灌〈おおたどうかん〉
… 戦国時代の武将。江戸城を築城。
弁財天〈べんざいてん〉
… インドの神。江戸城より勧請する。
徳川家康〈とくがわいえやす〉
… 東照大権現。徳川幕府を江戸に開く。
名称 | 福徳神社(芽吹稲荷) |
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住所 | 東京都中央区日本橋室町2-4-14 駅から徒歩すぐ、10分でお参りができます。 |
公式サイト | https://mebuki.jp/ |
出典:福徳神社